20140401

週の始めから大変に眠い。

しかし、心地よい筋肉痛(昨日ランニング、一昨日カーフレイズ)。
 
昨日の取締役(+人事部長)とのランチにて。
仕事と直接は関係のない総合旅行業務取扱管理者の資格を取得したことに対して、「。。。苦笑」という反応をされる。
仕事に活かそうと思ってとっていないので、こちらも「。。。苦笑」である。
 
ビジネスパーソンの多くは、仕事に直結する資格を取りたがるものらしい。(当然といえば当然かもしれないが。昨年夏の資格勉強中に、「何で「そんなん」勉強しとん?」と聞かれたことからも感じていたが)。
 
仕事中心になりたくないという自身の想い。
それ以上に、「役に立つから勉強する」<「本読むのが楽しい」という実感。(ここからも、「勉強する」よりも「読書」の延長上にある。すなわち、趣味の一つという認識)。
 
 
新年度である。
好天でこれまた心地よい。
嚏に伴う喉の痒み、目を擦りたくなる痒み、鼻水が垂れてくることさえなければ、もっと心地よいのだが笑
難儀な身体である。
 
とまれこんな難儀さは家族の比ではない。
自分が健康でいること(体重も増加傾向であるし。。。)が申し訳なく感じてしまう今日この頃。
実家との物理的な距離、もともとの家族のあり方の考え方ゆえ、自分が現状を「他人事」にとらえていることが、頭では申し訳なく思いつつも、イマイチ実感がない。
 
3月が一旦の区切りだったはずだが、この件に関して連絡をとることが気鬱である。気鬱であるがゆえに先送りにしてしまう。
 
先送りにするがゆえにさらに実感が伴わなくなる。
 
読者(がいるとすれば)には大変恐縮だが、(私が読者ならこんな話は読みたくない)このブログは、プライベートな日記も兼ねているのでご容赦いただきたい。
 
しかし、紙の日記の方が良いのだろうか。
日記なので筆まめ?とは言わないが、手書きを面倒と感じてしまうようになったことからも自身の変化を実感する。
時間に追われているわけでもないのに。
いや時間に追われているのだろうか。。。
いつも以上にクリアカットさのかけらもない駄文である。

『「持たざる国」の資源論ー持続可能な国土をめぐるもう一つの知ー』(佐藤 2009)①

M1〜M2の時に大きな示唆を得た『「持たざる国」の資源論ー持続可能な国土をめぐるもう一つの知ー』(佐藤 2009)を読みなおす。奇跡的に練馬区の図書館に所蔵されていた。
 
複雑な全体を細かな部分に切り分け、各々部分をそれぞれの専門家に割り当てて行く仕事の進め方が「科学的」であるとすると、切り分ける思考に慣れ切った私たちを立ち止まらせ、統合的な視点を回復させようとするのが資源論である。(226頁)
 
この考え方を強引に援用すれば、(出向社員かつ新入社員である)自分のミッションにより説得力をもたせられるのではないか。(この強引さが僕が研究者になれへんかった理由でもあるけど、、、文脈を無視してアイデアに飛びつく癖)
 
出向という身分に期待されるのは、外部であるがゆえに気づく差異のアウトプットである。
それはすなわち、(というかあえて資源論に引きつけていうと)「そうではなかった」選択肢に光を当てることである。ビジネスパーソンに立ち止まって考えてもらおうなんて、「何理想論振りかざしとんじゃ!」って言われるけど、自分のスタンスとしては重要と気づく。
 
新入社員という身分(もうすぐその身分も消失するが笑)に期待されるのは、白紙の状態で吸収すること、柵にとらわれず、横断的なセールスができることである。
Cチームがヒアリングして、投げるばかりではないと思うが、自分で創り上げること、別の領域でも考えてみようとすることへの抵抗感のなさ、より積極的にいうならば、全部自分で考えてみたいという欲求は、自分の長所であろう。
 
研修を提供する会社は、クライアントにとって外部である。
しかし、こちらのスタンスとしては、外部から準外部に、引いては内部同等のスタンスでクライアントと協業したい。
 
では、クライアント人事も上記のように捉えてみよう。
すなわち、クライアント人事を、クライアント営業部と経営層の外部と捉えるのである。
 
ここでセクショナリズムを惹起しようとしているのではない。
例えば、営業部長を商談に同席させることは、特にコンセプト作りの際など商談初期には、有用かもしれないというアイデアが思い浮かぶ。なぜなら、人事も外部であるがゆえに、不明点も多いからである。翻って、営業部側も、「貴重な時間を割いて、、、以下略」とネガティブにならずに、より研修効果の上がるようなマインドになりうる。研修会社は、研修を提供するけれども、研修実施によって何かを劇的に変えることはできない。これは、ある面で「逃げ」であるとしばしば言われる。無論この点を言い訳にしてはならないし、そのように捉えられうることには自覚的にあるべきである。が、そのポジティブな側面にも注目しても良いのではないか。商談に営業部長が同席するなんて、、、と人事も営業部も思う会社があるとしたら、そのように思わせただけでも、研修会社の(あるいはコンサルタントの笑)役割の一部を果たしたことになる。
 
このような考え方は、「直線的でわかりやすく効率的なビジネスライク」と相入れない部分もあろう。しかし、その相入れなさこそが重要であると思う。外部であることの役割、特に(人材)教育に関わる外部の役割は、「直線的でわかりやすく効率的なビジネスライク」に資することをきちんと説明しつつも、「直線的でわかりやすく効率的なビジネスライク」への信憑に再考を促すことである。
 
※上記「(人材)教育」としたのは、(学校)教育との対比を意図している。(人材)教育とは、資本主義の論理で動く人々をその対象とする。一方、(学校)教育は、資本主義の論理で動くことを前提としていない(ことが本来的な姿であると自分では考えている)。
(人材)教育と(学校)教育の大きな差異は、「「直線的でわかりやすく効率的なビジネスライク」に資することをきちんと説明」することの必要性の有無ではないか。(人材)教育の目的が、企業活動を通じての利潤創出である一方で、(学校)教育の目的が社会的に成熟した市民の創出であるからである。
この前提に立つならば、(人材)教育は、利潤創出への明確な関連は担保される必要がある。では、社会的に成熟した市民の創出に対して資する旨を説明する必要はあるのだろうか。このように問うことが既に、ビジネスの領域に侵食されつつあることを示しているかもしれない。説明の必要性がないというよりむしろ説明が不可能なのである。
(ここで、「説明の必要性がある!」と主張することは、(学校)教育が危機に陥っている理由でもある。目的が違う場合、同じ手法を用いることが有用であるかは熟慮を要する。熟慮しないで説明を行い、「勉強をすると良いことがある」という浅薄な馬人参的説明は、現状の学校教育を取り巻くネガティブな状況の一因である)。
 
ちょっと長くなってしまったので、一旦区切り。
 
 
 
 

あひるの空22〜27巻より

22巻
人はここまでとラインを引くとたいがい頑張れてしまう生き物なんです。あえて彼らにはこの趣旨を伝えません。それぞれの自主性のみで到達してもらいます。
 
24巻
これは先生達が課した試練かもしれんが、俺たちの挑戦でもある。
さて、度合いが強いのはどっちだろう。やらされてると思ったら終わりだ。
 

先週は4/5外食

久々の更新。

ネットにつながらなくなっておったのである。

 

3/26
研修室の先輩と今年から東京で働く同期と@上野。
中華をいただく。
青椒肉絲、黒酢酢豚、八宝菜、棒棒鶏、白飯、麦酒。
京都に帰りたくなった。
3月に2回帰ったけど。いや帰ったがゆえか?笑
 
3/27
退社後、以前から気になっていたMAX BRENNERへ。
普段の僕なら20人くらいの列を見れば回れ右。
しかし、このために来たのに引き下がる訳にはいかぬ。
19:30に並び始めて1時間。
東京Native(表参道ヒルズは2回目?らしいが)に言わせると、「全然少ない方だよ」とのこと。
表参道ヒルズ初体験の)田舎もんからすれば衝撃。
並んどる人は大学生か?、スーツきた人は我々以外におらず。
ビジネスマンのために、学生は日の高いうちにくるようにして欲しい!など暴論をはきつつ。
 
自分はHalfPizza+MexicanChoc(White)。
相棒のドリンクはSaltCaramel。
MexicanChocはチリも入っており、チャイみたいな感じ。
PizzaはWholeでよかったなと言いつつ食す。
通常食すならもっとビターなチョコが好みだが、お腹の空き具合にもマッチした甘いミルクチョコ+ホワイトチョコ+マシュマロをボリュームある生地が受け止めておりGood。
 
からの店員さんに「閉店(22:30)なので。。。」と言われるまで滞在。
22:45くらいか。店員さん、聞き分けの悪い客でごめんなさい。
 
状況を打開しようとするエネルギーを発揮できる能力に改めて感銘を受ける。
僕の歯を治療してくれるのはいつになることやら?と思うも、自分に将来への向き合い方がChallengingで素敵やなと思う。
 
誕生日プレゼントももらい、僕の休日がより妄想的になることは否めない。
 
これが金曜日ならどんなに良かったか笑
 
24:30帰宅。善哉(4:30起床だが)。

印象に残った言葉など

異文化理解研修をしても、日常が異文化と捉えられへんかったら意味がない。(某先輩)

 
相手のハートをつかむコミュニケーションは徹頭徹尾サービスである。(水野敬也『うける技術』より)
 
企業を変えられなければ(日本の)教育を変えられる訳がない。(某講師)
 
およそ多くのものの見方は振り子の如く揺れ動く(つまり正ー反である)。しかし、それだけでは進歩がない。正ー反ー「合」を目指さないといけない。・・・(中略)・・・国と国との関係も揺れ動く。いがみ合う隣人を持つことは不健全である。今日の研修を踏まえると、アジア人としての使命に目覚めて欲しいと考えている。それは、会社が皆さんを採用し、期待していることに他ならない。(某講師)
 
 
 
 
重要なスタンスは、「プロアクティブ」であると感じている。
ここで「プロアクティブ」とは、「あるがままの自分のポジティブに受け入れ、自信をもち、相互信頼を目指し、他者との協創により成果の最大化を志向する考え方(マインド)」をいう。(某講師の研修より)
 
その意味で自分は好ましくない1〜3月の過ごし方が健全であったとはいい難い。しかし、それに気がつけたことは良かった。

 

外出先から直帰

20時に帰宅。

折角なのでランニング。
4kmほど走る。
 
3月8日に体調を崩して以来、サボっていたゆえ、
いつものペースで走るとしんどい。
昼食を取れなかったことも多少影響しているかもしれない。
 
シャワーを浴び、洗濯をする。
牛豚ミンチを五香粉で味付けし、飯と共に炒める。
 
オーストリア料理vsトルコ料理のTV番組を見る。
ヨーグルトソースの素晴らしさを思い出し、今週末に作ってみようかと思案。
シュトゥルーデルってバクラヴァが起源だとか(某氏に知らへんのかい!って突っ込まそうだが笑)。
 
そして23時前にサクッと就寝。
善哉。

タイトルを読んだ時から嫌な感じがした。

20140324日経社説より
※【】《》は筆者加筆。
 
 
手続き論で【改憲を止めるな】
 
 憲法改正の段取りを定めた国民投票法改正のめどが立ってきた。投票権を付与する年齢などの課題が解決せず、国民投票は事実上封印されてきた。【手続き論を盾にして改憲を妨げるのは邪道だ】。与野党は早期の法改正に向け、改正案づくりを急いでほしい。
 改憲は衆参両院議員の3分の2以上で発議し、国民投票で過半数の賛成があれば可能だ。その具体的なやり方を規定した国民投票法は2007年に成立した。
 「3つの宿題」が残った。ひとつが何歳から投票できるようにするかだ。自民党が20歳、民主党が18歳を主張し、原則18歳だが、民法の成人年齢などと整合性がとれるまで20歳とすることになった。
 あと2つは(1)公務員が改憲への賛否を訴える活動をしてよいのか(2)改憲以外の案件でも国民投票をするのか――である。
 これらは法施行後3年以内に解決するはずだった。だが、「20歳で成人」とする明治以来の法体系の見直しに霞が関が後ろ向きだったこともあり、論議が進まないままだった。
 《改憲をすぐに政治日程に載せるかどうかはともかく、「そのための手続きが完成していないから改憲できない」では立憲国家として恥ずかしい》。
 与党と民主党は今月、法改正後2年以内に投票権年齢の20歳から18歳への引き下げを目指すことなどで一致した。日本維新の会みんなの党との調整も大詰めを迎えている。主要5党で共同提案できれば今国会での法改正の実現に大きく前進する。
 世界では投票権年齢は18歳とする国が多いが、何歳が正解と言い切れる問題でもない。各党とも合意重視で議論を深めてほしい。
 《憲法は国の最高法規である。改憲手続きのような問題を政党の目先の党利党略に利用するのは好ましくない》。
 【一刻も早く改憲の土俵を整え、改憲派護憲派が正々堂々とがっぷり四つに組んだ憲法論議に期待したい】。
 
 
 
憲法についての熟議を促すようにも無論読める。
記者もそう意図して執筆したのかもしれない。
が、憲法の熟議を促すように見せつつ、ある価値観の押し付けが感じられるのである。
記者の(あるいは新聞社の)暗黙の前提が、新聞としての「中立性」を担保しようとしつつも漏れ出ているように思われる。
(「中立性」はおよそ中立ではないが、ここでの主題ではないのでこれ以上言及しない)
 
暗黙の前提がタイトル、主張1,2に端的に現れている。
それは一言でいえば、「改憲すべき」である。
 
タイトルが「手続き論で改憲『論議』を止めるな」ではない。
主張1が「手続き論を盾にして改憲『論議』を妨げるのは邪道だ」ではない。
主張2の前提が、『一刻も早く改憲の土俵を整え』である以上、「改憲派護憲派が正々堂々とがっぷり四つに組んだ憲法論議に期待」できない。『改憲の土俵を整え』ることは、「改憲しない」選択肢は事実上排除されるからである。
 
また、この主張の理由は
改憲をすぐに政治日程に載せるかどうかはともかく、「そのための手続きが完成していないから改憲できない」では立憲国家として恥ずかしい》
憲法は国の最高法規である。改憲手続きのような問題を政党の目先の党利党略に利用するのは好ましくない》
である。
 
ここで「恥ずかしい」「好ましくない」と思う主体は誰なのか。
主体を明確にしないことによって、一般的な感じ方であることを案に示している。
が、そこにはやはり「改憲しない」派の声は考慮されていない。
 
 
「現行憲法では国を守れない」というのが改憲の理由の一つであるが、その主張には説得力のある論拠が示されていない。ほんとうに現行憲法のせいで殺された国民、奪われた国土があるというのなら、改憲派にはそれを挙証する義務がある。でも、彼らは「この憲法では国を守れない」と言い募るだけで、「この憲法のせいで国を守れなかった」事実を一つとして挙げていない。
 
〜引用終了〜
 
論拠をあげず、そんな気がする雰囲気を作り出している。
新聞の報道を疑うことは疑いないことではあるが、それでも気鬱であることには変わりない。
 
とまれ自分にできることは何か。
発信し、賛否共に意見を受け入れること。
もって一人でも関心を持つ人を増やすこと。
そして自分のアンテナの感度をあげること。
まずはそこから。